Waiting doll
幼い日に遊んだ玩具は
子供が大人になっても
いつの日か もう一度遊んでくれる時を夢見て
今日も一人輪舞曲を踊りながら
いつまでも いつまでも
待ち続けるのです――
「ねぇ」
「何ですかスマイル? そんな思いつめたような顔をして……」
「僕、幽霊見ちゃったんだけど」
休日の午後に屋敷に遊びに来たスマイルとお茶をしていると、普段から青い顔を更に青くしてそんな事を言い出した。
二、三度瞬きしてから、
「今も見てるじゃないですか」
スマイルの目の前に居るジズはれっきとした幽霊である。
「大体貴方もお化け類ですよ」
「いや、まぁそれはそうなんだけど……!!」
本人が“透明人間”という身である事を指摘するが、そんな事は関係ないというように話を続ける。
「何か違うんだよ! 見た瞬間にゾクゾクゥって!!」
「それが普通ですけどね」
「西の町はずれにある洋館に居てさ!」
「じゃ近寄らなければいいじゃないですか」
「ジズあれ何とかして!!」
沈黙。
「――えぇ!?」
という一件があり、今ジズはその洋館とやらに足を進めている。色々と反論はしてみたが、結局断れずにやってきてしまった。スマイルには逆らえない。
しかし、と思う。
この世に留まったままという事は、自分と同じ身の上なのだ。その霊も、何か思う事があって昇天せずにいるのだろうから、自分などがとやかく言うものではない。元々他人に昇天を勧める前に己がしていない。そんな自分の言う事など、説得力は皆無に等しいだろうし、本人だって放っておかれたいに決まっている。しかし今更引き返す気にもなれず、重い溜め息と共に歩を進めた。それにこのまま帰ってはスマイルに申し立てができない。
そんな事を考えている間に、その洋館が見えてきた。
随分古そうな外観だ。一体何十年この場に建っているのだろう。思わず感嘆の息を漏らしながら見上げるジズ。酷く古い造りだが、建築法が良かったのだろう。未だに傾いたりせず、どっしりと威厳を放って聳えている。しかしそれでも時代を感じさせる劣化した壁はひびが走り、ところどころ欠けてしまっている。蔦が一面に蔓延り、蜘蛛や蜥蜴が忙しなく走り回っていた。周りに生える雑草には全く手入れがされておらず、好き放大に伸びて来る者を拒んでいるように見える。
鬱蒼と茂る草木の中に、その洋館は建っていた。この外観なら、確かにお化け屋敷だろう。ジズの屋敷も外側だけわざと古くして廃墟のように見せているが、これ程ではない。一体どうしてスマイルはこのような場所にやってきたのかと秘かな疑問が浮かんだが、すぐにまた普段の癖で道に迷ったのだろうと結論付けた。恐らくこの洋館の近くまで来て、窓から霊の姿を目にして逃げ帰ってきたのだろう。彼のおっちょこちょいと子供っぽさに笑いがこみ上げた。
「……ふぅ」
軽く息を吐いて気を取り直し、重厚な扉のノブでノックをするが、勿論返事はない。
「――失礼します」
そう言って重い扉を押し開けると、木材と金属が何十年かぶりに擦れて、ギィッという耳障りな音と共に口を開けた。瞬間、わっとかび臭さが流れだし、反射的に手で鼻を覆ったが、顔を顰めながらも中へと足を踏み入れる。
入口から日差しと風が流れ込み、永い時をかけて積もった埃が舞い上がって光の中で踊るが、それでも館内は薄暗く静寂を湛えていた。幽体化していれば真っ暗でも辺りを見回せるが、実体化しているので普通の人間と同じ視力しかない。しかし入口から差し込む光で、ぼんやりと中を見渡せた。
外観同様、中も酷く古かった。至る所に蜘蛛の巣がかかり、古めかしい家具には厚い埃が積もっている。正面に掛けられた鏡はひび割れ、半分以上が下の床の上に欠片となって落ちていた。
自分が立てる音以外何も聞こえない、完璧な静寂。
「――――?」
特に霊の気配は無い。場所はここで間違いないだろうが、これはどういう事だろう。
暫く考えて、ただのスマイルの見間違えだったのだろうという思考に達する。これだけ古い洋館を外から見たのなら、中に有る家具をお化けと見間違えても不思議ではないし、スマイルならやりかねない。
無駄足だったと落胆と安堵の混ざった溜め息を吐き、踵を返そうとした、が――
「…………ん?」
ふと、ジズは怪訝に首を傾げる。
入口から差す光の中で見えるフロアには、一面埃が積もっていた。しかしその中で輪のように埃が無い部分があった。それはまるで、何かが毎日ここで、その埃がない曲線の上を歩いているかのような――
――カタン
「!?」
フロアの隅から聞こえた小さな物音に反射的に振り返ると、瞳を見開いた。
そこには、体も、身に纏ったドレスもボロボロの女性が、微笑みを浮かべて立っていた。
「ご……主人……さ……ま。やっ……と、お帰りに……なって下さった……の……ですね」
「――貴女は……!」
人形だ、とジズはすぐに気付いた。たどたどしく喋る彼女は普通の女性と身長もほぼ同じだが、間違いなく人形なのだと直感が告げた。
よく見れば首や手首にはつなぎ目も見える。それに加え、顔や手には無数の亀裂が走り、ドレスは裾も破れてボロボロだった。肩には埃も積もっている。彼女もまた、何十年も前に造られた人形なのだろう。それも、元は目を見張る程美しいフランス人形だったろう面影を至る所に残している。
カタカタと音をたてながら、彼女はジズに近寄って来る。
「シャルロット……は……ずっと……お待ちしておりまし……た……よ………?」
深い緑青の瞳に浅葱の髪。深紅のドレスから解けたリボンを引き摺りながら、彼女は幸せそうな笑みを浮かべたまま歩み寄る。そして両手をジズに向けて差し出すと、手の亀裂が一部小さな欠片となって、ポロリと床に落ちた。
その様に、ジズは戸惑いの声をかける。
「あ……の、」
「お懐かしい……ご主人様……ま……た……私と……遊び……」
「あの!」
少し声を大きくして、眉を寄せて彼女に諭すように言う。
「申し訳ありませんが、人違いです。私は貴女のご主人ではありません」
半ば困惑しながらもそう言うジズに、彼女は瞳を見開き、え? と小さく声を漏らした。その瞬間、これまで本当に幸せそうだった笑みが一気に引っ込み、酷く哀しい表情に塗り替えられ、その変化にジズは小さく息を呑んだ。
しばしの沈黙の後、
「そう……でした……か………。それ……は……失礼し……ました」
「失礼ですが、かく言う私も霊ですが――」
たどたどしく言葉を紡ぎ、体をギシギシと軋ませながらゆっくりと踵を返す彼女に、ジズは背後から控え目に、しかしはっきりと話しかける。
「貴女は……人形ですね?」
その、問いかけではなく確認に、彼女はまたゆっくりと首を巡らせ、
「……はい」
か細い声で肯定した。
その応答に一つ頷き、彼女の悲しげな瞳を見つめたまま、更に言葉を綴る。
「もしよろしければ、何があって今この場にいらっしゃるのか、お聞かせ願えませんか? ……拝見したところ、随分と長い間ここにいらっしゃるのでしょう?」
人形師であるジズの目から見れば、彼女の劣化具合は少なくとも造られてから五十年以上が経過している事は明らかだった。
その申し出に、人形はしばし彼を緑青の瞳で見据え、
「――退屈……な………お話……に……なるか……と……思います……が……」
沈黙の後にそう口を開き、静かに、言葉を紡ぎだした。
その少年は、親の仕事の都合上、滞在国を転々としていた。
いわゆる“上流”の家庭ではあったが一人息子だった事に加え、両親は仕事の事しか頭になく、彼にかまって遊んではくれなかった。しかし遊び盛りの息子がそのままでは余りに不憫だろうと、父親はフランス滞在中に一体の人形を買い与えた。その美しいフランス人形を、少年はいっぺんで好きになり、それ以来どこへ行くにも手放さなかった。沢山の国に滞在したが、その人形相手に毎日の時を過ごしていた。そうしている間に、この日本にも滞在する事になった。
しかし、その頃には少年は成人していた。親の仕事を継ぎ、立派な跡取りへと成長。昔に比べて、彼は人形を手にとる事は殆どなくなっていた。手に取る時と言ったら、書棚に座りかけて飾られている彼女の後ろにある本を取り出す為に、どかす時だけになっていた。そうして暫く日本で仕事と勉強をしていたが、また別の国へ移り住む事になる。これまでに比べて滞在期間が長かった為にわざわざ造った屋敷も必要がなくなり、空き家になった。彼がこれまでずっと手放さなかった人形は、今回も勿論自分も一緒に連れて行ってもらえると思っていた。
しかし、
『ここで待っていておくれシャルロット。僕はまた、必ず戻ってくるからね』
そう言って、人形を置き去りにしたまま日本を旅立った。そしてそのまま――
「だか……ら……私は待っている……のです。上手に踊……ると……ご主人様は……笑ってく……れた……喜……んで……く……れた。だから……ずっと踊りなが……ら……待っているの……です……」
――――そうして待ち続ける内に、魂が宿ったのですね。
彼女の、シャルロットの話に耳を傾けていたジズは心内で呟きながら、何気なく部屋を見渡す。成程。フロアには無数の本棚が並び、中にはぎっしりと書籍が詰め込まれている。様々な国の本が所せましと並び、蜘蛛にとって絶好の巣作りの場になっていた。
勉強熱心だったのだろう。そう思いながら更に首を巡らすと、
「…………!」
片隅に、これまた埃と蜘蛛の巣にまみれたデスクが据えられている事に気が付いた。その卓上本棚に納められた内一冊の背表紙を目にし、ジズはゆっくりと近寄ると蜘蛛の巣を払い、その本を手に取った。どうやらそれは、彼女の主人の日記のようだった。触れただけで崩れそうな程劣化した虫食いだらけの紙を慎重にめくる指は、あるページで動きを止めた。
「いつ……お帰りになっても……いいよう……に……」
背後でたどたどしく語られる言葉を背に、目がページの上の文をなぞる。
「ずっと……踊り……ながら……」
「シャルロットさん」
ふいに言葉を遮ると、ジズは彼女へ向き直り、
「残念ですが、貴女のご主人は、もう二度とここへ戻ってはきません」
淡々と、悲しげな瞳でそう言葉を発した。
「――――え?」
瞳を見開いて声を漏らすシャルロットに、ジズは続ける。
「悲しいとは思いますが、もういくら待っても、ご主人が帰る事はないでしょう」
そう、言いきった。それから彼女に日記の最後のページに、彼の仕事と知識を世間が認め、英国で正式に職務に就くことが決まった事。政府が英国での永住を補助し、本人もそれを了承してこの屋敷を引き払った事を伝えた。しかもそこに記されていた日付は、逆算すると本人は死んでいるかかなりの高齢者かのどちらかだった。
説明される事柄を聞くシャルロットは、綴られる単語の一つ一つに驚愕の色を浮かべ、大きく瞳を見開いたまま話を聞いた。
「ご主人……様……は……お帰りに……ならないの……です……か?」
「はい。まず間違いなく」
断言するジズ。動揺と困惑と驚愕の色を瞳に浮かべる彼女を哀れだとは思ったが、ここで自分が嘘を言う方が哀れになってしまう。これまでの膨大な時間待ち続けてきた彼女に、今ここで自分が真実を告げる以外に、解放する手段は無いように思えた。主を想うあまり魂が宿る人形は少なくないが、それによって体ごと成長して自ら動き踊り続ける程強い信念は、並大抵のものではない。それ程の強い願望という柵から解放する為には、今ここで自分が真実を伝えるしかないのだ。
「……で……は……もう私……が……いくら踊っ……て……も……笑っては下さ……らない……の……です……ね………」
静かにそう言い、顔を伏せた。その様をジズは憂いを帯びた瞳で見据える。何十年も信じ続けてきた主に裏切られた悲しみを、今彼女は体中で痛感しているに違いない。
それからしばらく、屋敷には静寂が降りた。一体今何を考え、何を思っているのかと思考を巡らすジズに、彼女は唐突に静寂を破って口を開いた。
「私は……もうすぐ……壊れ……る……でしょう。……です……から……その前に……お願いが………あるの……です……」
その言葉に、一瞬瞳を見開いた。
確かに彼女の体は、もういつ壊れてもおかしくない程ボロボロだった。しかしそれを本人が自覚していたとはどういう事なのか。
つまり、シャルロットは自分がやがて朽ち果てる事を知っていながら、それでも、最期の一秒になろうとも主を待ち続けるつもりだったと言うのか――
あまりに純粋で、あまりに優しく悲しい人形。それを再認識してしばし言葉を失ったが、
「……私に、できる事であれば」
そう、返した。彼の言葉に安堵の表情を浮かべたシャルロットは、ギシギシと音を立てながら自分の腕を顔の前まで持ってくる。ただそれだけの動作にも耐えきれず、腕の一部の亀裂が欠片となって、ポロリと床に落ちた。
その欠片が舞い立たせた埃に目を細めながら、彼女は言葉を綴る。
「せめ……て……この体が……完全に……朽ちてしまう……前……に……」
そこまで言って、彼女は柔らかく静かな微笑を湛え、ジズを真正面から見上げ、
「私……と……一曲……踊って下……さい。貴方の……お顔は……どこと……なく……ご主人……様……に……似ていらっしゃる……から……。……駄目……ですか?」
そう、たどたどしく、最期の望みを口にした。
他はボロボロでも、その深い緑青の瞳だけは澄んでいた。他には何もいらないという、純粋な願望をその内に湛えた真っ直ぐな瞳を、ジズは蒼い左目と仮面の内側から赤い右目で見つめる。
儚く、美しく、優しい人形の瞳を、しっかりと見つめたまま、
「――私などで、構わないのなら……」
そう言って右手を胸に当てて一礼してから、そのまま手を彼女へと差し出した。
酷く古いレコードが、何十年ぶりに蓄音器から邸内にメロディーを響かせた。どこか懐かしい旋律が空気を震わせながら、洋館のフロアで小さなダンスパーティーが開かれていた。
何十年も主を待ち、ひたすらに一人で踊ってきた、ボロボロのフランス人形。
七百年という膨大な時間を彷徨ってきた、半仮面の幽霊紳士。
その二人は薄暗い屋敷のフロアで、もしも観客が居れば感嘆の息を漏らしたであろう程優雅に美しく、踊っていた。まさか数分前に初めて知り合ったとは思えぬ程波調の合った二人のリズムは、屋敷全体を息づかせるようだった。
蓄音器から溢れるメロディーは、流れているその間だけ、屋敷をまだ住人が居た頃に蘇らせようとしている気がした。色を無くした邸内の全ての物が、その色彩を取り戻し、再び輝こうとしているかのような錯覚を見る者に与える。美しく舞い踊る二人を、ひび割れてくすんだ鏡が無数に映していた。
こうして誰かと踊るのは、生前の仮面舞踏会以来だと、ジズは心内で密かに懐かしんだ。紳士淑女の競技であったダンスが、彼はとても好きだった。周りの貴族達は疲れるから嫌だとか、足が痛くなって嫌だとか言っていたが、ジズは教師からも筋が良いと言われ、本人も純粋に楽しいと思っていた。楽しんで積極的に習っていたので、技術はどんどん上達し、やがて教師も目を見張るほどの踊り手になっていた。更に仮面舞踏会は、普段胸を苦しめている右目の色を忘れる事ができて、好きだった。
しかし、それ程好きだったダンスも、死んでからは殆ど踊っていなかった。ふとした時、一人でステップを踏む事は合ったが、誰かと組んで踊ったのは七百年ぶりだ。ポップンパーティーに呼ばれるまではずっと独りで彷徨ってきたし、周りに踊れる女性の霊も居なかった。パーティーに来てからは社交ダンスを踊れる人も何人か居たが、自分が霊である事が何となく尾を引き、誘えなかった。因みにリデルが何度かダンスをせがんできたが、手を取った瞬間に髪から大量の鼠が出てきたので流石に身を退いた。
こんなに優雅に、誰かと踊るのは本当に懐かしい。契約によって生前の記憶を忘れられない自分は、やはりダンスのステップも忘れてはいなかった。というより、頭ではなく体が覚えていた。次の足はどちらからか、身のこなしはどう行くか、相手のリードはどのくらいの力にするか、そういった事全て、頭で考えるよりも先に体が動いたのは嬉しかった。そしてシャルロットは、ジズのリードにしっかりとついてきた。ただ動いている時はギシギシとぎこちなかったのが嘘のように、ダンスのステップは滑らかだった。彼女は今何を想いながら踊っているのだろう。少し、気になった。
それでも優雅に、踊り続けた。気にはなったが、シャルロットは幸せを噛み締めるような微笑を浮かべていたので、気は紛れた。
時を忘れて、二人は舞い踊った。
やがて、レコードは途切れ、曲も止まる。プツリと切れたメロディーを合図に、二人の踊りも止まった。緩やかに、止まった。
「……あ……りがとう……。……最期に……貴方と……踊れて……良かった……」
一泊置いて、静かに、たどたどしく口を開いた。
「ご主人……様……本人では……ない……けれど……貴方に……会えて……良かった」
組んでいた腕を解いて柔らかな笑みを浮かべたまま話す彼女を見据えるジズ。
「今……まで……壊れ……ずに……いられた……事……無駄じゃ……なかった……」
そこまで言った彼女に、次の瞬間瞳を見開いて驚愕した。
人形の硝子玉の瞳から、大粒の涙が零れ落ちた。
――人形の涙!
小さく息を吸ってシャルロットを見つめる中、彼女は続ける。
「思え……ば……ここを……出るより……ずっと前……から……私と……また遊んで………下さる気など……無かったの……でしょう……ね……」
なんて綺麗な涙だろう。
正直に、そう思った。
大粒の透明な涙が、緑青の瞳から溢れて頬を伝う。いくつもいくつも溢れる雫は微かな明かりを反射して煌めき、ドレスに落ちると吸い込まれて消えた。
残酷な程美しく儚く、哀しい微笑を湛えたまま涙を流す彼女を、ジズはこれまで見てきた何百という人形の中で、間違いなく最も美しいと確信した。
彼女は続けた。涙で濡れた微笑みのままで。
「わ……たし……を……本当に……必……要……と……してくれる……人……は…………」
そこまで言った時、未だに手を取ったままだった彼女の右手首から先が、ボロリと崩れ――
「だれも いなかった――」
瞬間、ガシャンという硬く大きな音と共に全身が崩れ落ち、フロアの埃を舞い立たせた。
「―――――……」
赤と青の瞳を一杯に見開き、絶句したまま壊れた人形を凝視する。
足首も、手の指も首も折れて転がり、細かな破片が砕けて散乱した。浅葱の髪は無残に床に投げ出し、付けていた華の髪飾りも壊れて転がった。腕も折れて、ドレスの袖の一部が不自然に陥没していた。
ジズは、言葉を失ったまま彼女の残骸を見下ろし、ついで今尚自分の掌に乗ったままのシャルロットの右手を見た。
その、数瞬後。
「――っ!!」
全速で一番近い窓に駆け寄るとそこに下がっていたカーテンを引き千切るような乱暴な動作で剥ぎ取った。
そして、そのカーテン布に彼女の部品を拾える限り全て拾い入れ、包むとカーテン紐でしっかりと縛り、脇に抱えるようにして立ち上がり、
「このまま終わりにはさせません!!!」
そう叫ぶと同時に、出口に向って駆け出した。
外に出てみれば、もう日は殆ど沈んでいる。ジズは必死の形相で地を蹴ると、そのまま幽体化して飛び立った。
ほどなくして自分の屋敷に到着するや否や、大急ぎで廊下を駆け抜ける。
『主?』
「作業部屋に居ます!!」
不思議そうに声をかけるハートにそれだけ言い、作業部屋に入るなり帽子とスカーフを取ると作業用のエプロンをかけた。
そして、用具や材料の入った箱を開け、作業台の上でカーテン紐をほどき、彼女のパーツを広げた。
どうか、もう一度――
“あなたは ほめてくれた”
せめて、今度は――
“いつも わらいかけて”
自分自身の為に、踊れるよう――!
“ほら みてみて”
「――――……!」
目を開けたシャルロットは、落ち着いたセンスのいい家具が並ぶ、綺麗に整頓された屋敷の客間の椅子に座っていた。時計が午前十時を指し、落ち着いた音が響く。何故自分がこんなところに座っているのか、ここは何処なのかと思考を巡らす内に、壁にかかった大きな鏡に気が付いた。
そこには、肌のくすみも亀裂もなく、髪は綺麗にくしを通され、ドレスの乱れもほつれも全く無い、造られた当初そのままの状態の自分が映っていた。
最初、夢を見ているのかと思った。次いで、ここが人形にとっての天国なのかと思う。それならば、充分満足だ。こんなに過ごしやすそうな空間なら、地獄でも天国でも構わないと思った。
最後に出会ったあの半仮面の紳士は、本当に良い人だったと思う。白い仮面と裏葉色の肌に蒼い瞳の、幽霊紳士。どことなく、自分の持ち主に似ていると思った。
雰囲気や、瞳の落ち着きが、似ていると思った。
最後にあの人と踊れて、楽しかった。今までずっと独りで踊り続けてきた自分と、最期の最後に一緒に踊ってくれたあの人に、もう一目会えたらと願う。シャルロットは、あの時一緒に踊ってから、すっかり彼に惚れてしまっていた事に気付いていた。
ご主人様はもう帰ってはこないけれど、せめてこれから、あの方の側に居られたら――
無理な願いを夢見て自嘲気味な笑みを漏らしてから、再び目を閉じようとした、その時、
「お目覚めですか?」
「!」
ガチャリとドアを開けて、当たり前のように彼が入ってきた。呆然とするシャルロットは静かに微笑む彼を見て、これが夢でも死後の世界でもない事を確認した。
「……何故……私は……?」
「僭越ながら、私が修理させて頂きました。どこか動かしにくいところはありませんか?」
さらりとそう口にするジズを信じられないと言った表情で呆然と見返したが、すぐに手足の関節を動かしてみた。どこもかしこも、すんなりと動く。
「……いえ」
「良かった。ここは私の家ですので、どうぞ楽にして下さい」
言いながら向かいの椅子を引いて座るジズに返事をしてから、まじまじと彼を見つめる。優雅に腰を据える彼は柔らかな微笑を浮かべ、自分を見た。
信じられなかった。
一度壊れた筈の自分を、彼が直してくれた。また、この人に会う事ができた。胸の内から湧き上がる幸福に身を震わせていると、彼は一度目を伏せ、
「一つ、提案なのですが――」
彼女をまた真っ直ぐに見据えて、更に信じられない話を切り出した。
「ここで、暮らしませんか?」
「――え?」
瞳を見開くシャルロットに、ジズは続ける。
「もう、あのお屋敷でいくら待っていても、貴女のご主人は帰ってこない。それでも待ち続けると言うのなら止めはしません。けれど、これからはこの新しい家で――」
そして、一泊置いて、
「誰かの為ではなく、自分自身の為に踊ってみては如何でしょう? 貴女がそうして楽しそうに踊って下されば、少なくとも、私は幸せな気持ちになって笑う事ができます」
そう言って微笑んだ瞬間、シャルロットの瞳に涙が溢れた。滲んだ視界の向こうで微笑む青年に、様々な感情が入り混じって込み上げてくる。
「それに、もし一人で踊る事に飽きてしまったのなら、私はいつでもお相手いたしますよ」
溢れる涙に身を震わせるシャルロットに、優しく微笑んでそう言うジズに、とうとう涙は雫になって頬を滑り落ちた。
溢れてくる、様々な思い。
二度と会えないと解った主への悲しみ。
何十年もずっと暮らしてきた、あの洋館との別れの寂しさ。
しかし、それよりもずっと強い、新しい屋敷への期待と希望。新しい主への喜び、愛しさ。それらが混ざり合い、酷く深い幸せの形となって、涙が零れる。
「――有難う……ございますっ」
泣き笑いを浮かべてそう言う彼女を、ジズは安堵の息を吐いて見やった。これでもう、いらぬ柵から解放されるだろう。
良かった。
「……思えば、自己紹介がまだでしたね」
やんわりとそう切り出し、一旦椅子から立ち上がると、
「私はジズと申します。これから、どうぞ宜しくお願いします」
言って、胸に手を当てて一礼した。
「ジズ様……」
彼の名前を繰り返しながら、彼女も立ち上がり、
「改めまして、シャルロットです。こちらこそ、どうぞ宜しく……!」
ドレスの裾を持って一礼し、そしてほぼ同時に、二人は破顔した。
*
「ふーん。それで一緒に暮らす事になったんだぁ」
「はい」
数日後、遊びに来たスマイルに彼女の事を話した。スマイルは、家族増えたね、と言って喜んでくれた。
「そっかー人形だったんだぁ! 僕はてっきり幽霊かと……」
そう頭をかくスマイルに笑い返してから、二人が座るソファの後ろで壱ノ妙と笑っているシャルロットに目を細めた。
「今ではすっかり打ち解けてくれて……以前はたどたどしかった話し方も、修理したらごらんの通りですよ。壱ノ妙と仲良しになりましたし」
女性の人形同士という事で、一番に仲良くなったのは壱ノ妙だった。まぁ精神的に壱ノ妙の方が子供なので、半分シャルロットがお守をしてくれている状態だったが、本人が楽しそうなので良いだろう。
「――彼女のような、涙を流す人形は初めて見ました。それ程の悲しみを抱えていたのでしょうね……」
「それで放っておけなかったんだ。ジズらしいね」
視線を前に戻し憂いを帯びた瞳で語るジズに、スマイルは微笑んでそう感想を漏らした。
彼女を、どうしても放っておけなかった。この七百年、自ら涙を流す人形を見たのは今回が初めてだった。主への愛しさや寂しさ、辛さが涙になって表に現れる程の、深い想い。このまま終わりにならなくて、本当に良かった。
「ジズ様、スマイル様」
背後から澄んだ声がかかり、二人が振り向くと、
「お茶が入りました!」
満面の笑みを浮かべたシャルロットが、御盆に甘い香りが昇る紅茶が入ったティーカップを二つ乗せて立っていた。
「――――……」
そんな彼女に、ジズは柔和な微笑みを浮かべて、
「有難うございます」
「様付けなんて照れるなぁ」
そう笑いかけるジズと顔を赤らめて頭をかくスマイルに、シャルロットは楽しそうに笑った。
どうか、これからは
幸多き輪舞曲を――
その時、背後から壱ノ妙の飛びつき攻撃が入り、
「シャルロットちゃーん! もっと遊ぼうよー!!」
「きゃあ!」
「ちょ! 熱! あちちちちちちち!!!」
「だからお茶を持っている時に抱きつくのは危ないから止めなさいと言っているでしょう壱ノ妙!!」
ジズ邸は、これまでより数倍賑やかな日常を送る事になった。
‐END‐
シャルロットが家族になる経緯の話でした^^;
思ったより長くなりましたね;
「おもちゃばこのロンド」、大好きです。逆再生は神ですよね!
あの、逆再生の最後でたどたどしく言う台詞は鳥肌モノだと思います!ヤバイです!
泣けるよねぇ。本当にねぇ。
大好きです。